OkOgeのブログ

地方で楽しく生活することをテーマに日々あったことをつづります。

いろんなことに鈍感になることの功罪

職場の人から来たメールの文章で、ちょっとイラっとした語尾。
「~お願いできますでしょうか?」

なぜイラっとしたかというと、その仕事は本来その人の仕事なのに、それを引き受けることを前提にしたような文面だったから。

人に依頼するからには自分はそれをできない状況を説明して理解を得るとともに、「~していただくことは可能でしょうか。」あるいは「~していただけませんでしょうか。」などと、言うべきでしょ!って思ったから。

でも、結局やってあげた。たいした事じゃなかったし、いちいちコメントするのが面倒だったので。

その人は社会人の経験がまだ1年ちょっとだし、日々の業務に追われてメールの書き方を勉強したことなんてないんだと思う。周りの人も、そういうことを気にしないのでしょう。
だから、その都度目くじらを立てる必要なんかない。現にそれで仕事が回っているのだし。

以前の仕事では、仕事柄文章の書き方やフォーマットを非常に気にしなければならなかった。新入社員の教育係でもあったのでよく指摘したけど、今はしない。

その人に対してそんなことを言う立場にないし、何より面倒だし。

そういえば大学生のとき、友人が「大人になるというのは、思ったことを飲み込んでいくということだ」というような事を言っていたな。
当時は、若いくせに何訳知り顏なこと言ってんだかくらいにしか思わなかった。

わたしは他の人と比べると思ったことを物怖じせずに言える方だと思う。
でも、こうやって「面倒だから」という理由で以前に比べると表に出さなくなった自分を感じる。
表に出さなくなったことで、感情の揺れが少なくなった。
ガマンしているのではなくて、飲み込んでいるうちに、感じなくなったから。
10代や20代前半の頃と比べると人当たりは良くなったはず。とっても楽だ。それを「丸くなる」と表現するんだろうな。

自分の感情や周囲との折り合いをつけていくことは必要。
でも、感受性を鈍らせて生きていくことっていいことなのかな。
確実に感動できることや、問題点に気づく機会は減っていくと思う。
行動を起こしたり、文章を書くということは、何らかの感情の動きがないとできないことなのに。

冒頭の人に対して、どうにかするつもりは全くない。
ただ、何でもかんでも飲み込んで「ま、いっか」としないようにしなくちゃ。と自分に言い聞かせる。

茨木のり子の「自分の感受性くらい」という詩を思い出すね♪

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい